昭和40年8月19日  朝の御理解


 昨日の朝の御理解に、神様に喜んで頂けれるような信心と、えー、が、自分だけのことにのみ、自分一家の事だけに終始してしまうような信心ではつまらんと、おかげを受けても果たしてそれで神様が喜んで下さるだろうかと。ね。
 広く大きく、ね、自分のこと以外の事が切実にしかもそれが、祈れれるようなおかげを頂けた時、それは、自分の心、自分の信心に少しのゆとりが出来る。ゆとりが出来るから祈れるのであって、それを私のこととして祈れれるおかげを頂きたいと。それが、その、ゆとりが、余裕がいわば、(?)になっていくんだというような御理解を頂いておったのですね。
 ですから、今日は例えば出来ても出来んでも、とにかく今まで自分のことだけを願いよった人は、あー、一家のこと、一家のことだけを願いよった人は、隣近所の事までもと、今現在椛目の御造営があっておるその御造営なら御造営の事をです、今日一日は本気で一つ祈らせて頂こうというような御理解。
 つまりそれには、大金が(?)の中からお金を、受ける。明日の朝、御祈念でその事を聞かせて頂こうといったような、あー風にも申させて頂きましたのですけれども。
 昨日私それを、本当にこう実感的にですね、一日を締めくくらせて頂いてから、本当に自分の周囲の誰かれの事を、おー、です、祈らせて頂いておるという事。

 一日を、おー、終わらせて頂いてから、まあ、感じることは本当に成る程祈ってはおるけれども、切実さがないという事を、実感させて頂いたのですけれどもね。そういう事で本当に、えー、そこん所の、掛けておるところをお詫びばかりさせて頂きました。
 昨日月並祭でございましたから、皆さん帰られた後に、善導寺、(?)それから、福岡の方達が皆残って後のかたずけをして、それからいつものようにお茶でも一服頂いてから皆さん帰りかけられました。 
 ところがどうしたものですかね、昨日、何か知らんけれども、私言い忘れたような気がしてならんのですよ。ですから私はわざわざ、久富さんにあの茶器を、新しく頂いとった茶器をださせて頂いてから、もうそれも(?)一時という時間に、それから私はあー、あの、お茶を入れさせて、ひとてまえ、お茶のひとてまえですからやっぱ、どんなに慌てましても30分かかります。
 まあ、皆立って帰りよるとです。ね、それをまた、私が、わざわざ呼び込むところで、一通りみんなお茶をして送り出させて頂いてからそこへ、皆がもう、自動車がちょうど四台残っておりましたから、4台に皆乗って、福岡・善導寺の帰ろうとしたほんの瞬間です、私共のうんとこう、向こうのほうみらせて頂いたらですね、もう、それはものすごいその、いわゆる音がしましてね、これでもう、それこそ、ものすごい(?)向こうからはしってきておる車がジーとこう、1転回するような風にこう、はあーやったなあと言うてそれから皆さん、四台の自動車でもう、あちらへ参りました、ちょうど、椛目のではずのところの、善導寺のところです。ね、大きないわゆる、外車のような車がひっくり返っておるのですね。

 あの、こちらのほうへ、ラーメン屋のあるちょっと向こうの下のほうです。私も一緒に参りましたらとにかく、その、上から誰かが引っ張り挙げてくるというて、一生懸命その中からおらびよるわけですね。その声がだんだんだんだん、こまくなっていくですね。私はもうこれはただ事ではないと思いましたから、すぐ私だけ引き返して、皆さんはもう、おー、とりあえずそれが次次へと車は止まるのですけれども、誰も手伝おうとしなかったそうですから、もう、椛目の方達が10人あまりでまあ、あーたもうそれこそ、二時頃まで位かかりましたでしょうね、えー、警察に電話をかける救急車を呼ぶ、んーそれから、もう、皆もう、(?)いっちょなってから、一生懸命そのそれを、とにかく引き上げ、だから一人一人救出して、6人乗っておった。それが、5人だけは出して、病院に運ぶものは病院に運ぶと言う風にですね、(?)して頂いた。
 私、御祈念しながら待たせて頂いておりましたら、(?)引き上げて帰ってきましたんですけれども、一人は亡くなられた。皆この近所の方達。常持からこの草野の方達。まあこういうなら、あー遊び人風の方達ばっかりだったですね。亡くなられた方はそのまあ、いうなら、親分のような人だったらしい。
 それがですねもう、出ようとしてからこれから上がはさまれて首と、こことはさまれてから、亡くなっておられたち言う。
 ね。もう本当にもう、もう少し切実な祈りが本当にささげられておったら、いわば大難をまあ小難でおかげを頂いておった、無難でおかげを頂いとったかも知れん、というような思いで終えさせて頂いたのですけれども、皆さん帰ってきてから、「先生もう本当に神様のお働きには恐れ入ってしまいます」というてですね、ね、あれがもし私が止めていなかったら、朝方までひょっとすりゃ、あー、通る人が車が「やってるやってる」というぐらいの事で言ったんじゃないかと思うですね。
 もうその間車が通らなかったのですもん、そんなに遅いですから。ね。ですから、まあおかげを頂きまして、それから、あの救急車やらその皆来てから、車が上がったのは二時半頃だった。皆さんはもうその、助けられるだけ、どこの人は助けて、それから、下に、しかっておるのはもう、もう、亡くなっておられますからね仕方がないから、もうそれを(?)って、そして他の方達がもう、その時すでに警察からもう、あっちこっちからもうたくさん集まってきておりましたから、皆さん帰りましたけれども、本当にその、他人事とは思わないですね。

 本当にあのお互いがそのこげんやって朝の御理解を頂かせて頂いておるが、もう朝の御理解がいかに、あの、かんながらな御理解であるかと言ったような事を感じますですね皆さん。ね、昨日お月並祭の中でも皆さん申しましたが、皆それを言うのです。ね、
 本当にそれは、誰でもそういう風にはまって、えー、その、御用せんならんですから、自分のこととしてといったような御理解を頂いておらんなら、もう本当に出来とらんかったかもしれんですけれども、その皆もう一生懸命、高橋さんなんかもう、病人、病人じゃないそのけが人を運んでおりますから、もう、白いワイシャツにこう血がついてですね、あの、しておりましたが、あー、昨日はそういうような結果に、答えが出て来ておりますね。
 私が休んだのは2時半過ぎでございました。本当に、まあ御祈念ちゅうにそれこそ、大変なスピードでまあ酔っ払い運転だっただろうと言う訳ですね。
 
 でその、キーというてその、スピードを出して走っておられるその車なんかを、御祈念中でもその聞かせて頂きながらその、もう昨日とは違うその本当にその実感的にですね、祈らせて頂かなければおられないという事でございましたけれども。
 本当に生のそうした一つの、おー交通事故なら交通事故といったような事を通してです、本当にいよいよ実感的に祈れれるおかげを頂かねばいかんなといったような事を私感じております。

 そしてから、もう、送り出してから、まあ内々のもんだけで話した事でしたけれども、本当に改めて、先日、麻生さんが、秋永先生ところの家内と2人の子供を乗せて少年少女会にやってきよる途中でやっぱりあの位の高さの3メートルくらいの高さから落ちて、あれは、完全に車のほうが上になっておってしもうておった。ね。
 んであの、そうして事故がありました時にです、どうしてこんなせまいところから、みんなが入りじゃすだろうかと、夕べ聞かせて頂いたのですけれどもね、豊美さんというて今、一年生の息子がおりますが、あの子がですね、ひっくりかえる時に、あの車から飛び出ておったそうです。してから(?)ですから、(?)それが二三メートル向こうじゃったから、自動車のこんな手前でですね、もうちっと(?)を聞いていよいよ、本当にヒヤッとするような思いが致しましたですね。本当に、これこそかすり傷一つしておらんのです。

 ただ、(?)ちょとこぶが出来た程度だった。ね。それから、夕べも申しましたように福嶋さんところの、子供がやっぱりあの熊本とこちらの、あの、久留米の中間にです、あの、高い崖から落ちてです、やっぱりその、(?)になってしまうくらいな、おかげを頂いておるけれども、やはり無傷でおかげを頂いておったというようなことやらを、もう同じようなケースなんですもんね。落ち込んでいる具合というもの。そこに、いよいよ、また、改めて夕べお礼を申させて頂いたのですけれども、まあ信心のあるものとない物の違いをまあ、感じるのですけれどもね、もう本当に、おかげを頂かしてもらやなきゃならんと思う。
 私共が本当に、切実に例えば交通事故なら交通事故といったようなことの中にでもです、自分だけの事だけではない、本当に、いわゆる袖すりあうも多少の縁で、同じ(?)あんな勢いで行きよるなら、危ないぞと例えば感じた時に本当に祈らなければおられないというような、信心が出来たらです、いわゆる私のおかげは、それででも(?)と言う風にこう感じるですね。

 どうぞ一つ、今日も昨日の引き続きのようなご理解でございますけれども、それがいわば昨日の、ご理解の答えがお月並祭後にそういう風な形になって、現れてきておると言うこと。ね、 私はもう大変な生生しい体験でした。ね。私はもう本当にそこの現場に行ってから、その、いわば助けてくれと言うておられる、その、声を聞いてだんだん声がこまくなっていくのを聞いて、私はすぐ一人帰って、御祈念させて頂きました。ね。
 おかげを頂いてから五人全員救出させて頂きまして、椛目の方達が全部それぞれに、運んで病院に連れて行くというようなおかげを頂いてですね、一人の方は亡くなられたのですけれども、本当に大難を小難でね、まあ、おかげを頂いたというその感じですけれども、それとてももちっと、本当の信心があればもうちっと徳があったら無難ですんだかもしれん、無難ですんでおってはしかし、ありがたい体験も生まれてこなかったということになるんですけれども、 もう本当に、人事ではない本気で例えば自分の乗っておる車だけの事ではない、もう、本当にすれ違わせて頂く車の事の上にでも、運転しながらでも、祈らせて頂けれるような信心が、いよいよ、出来させて頂かなければならんなという事を感じますですね。
                           おかげを頂かねばなりません。